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2025年9月29日 (月)

矢野暢著『衆愚の時代』・・・2

前回からの続きになります。

「世の中には、巧まずして人びとを感動に導く真実のドラマがありうる。そして、そのようなドラマは、人びとが全力を尽くして自分の使命をまっとうするという、いわば、ごく単純な心掛けから生まれるのである。逆に、人びとが自分の使命との素朴な取り組みを忘れたとき、この世の中からは、、感動を誘うドラマは消えてしまうことになる。」

↑ これは引用のみにしておきます^^

「正義というものは、誠実に生きる一人の人間のインテグリティに宿るのである。複数の正義の問題点は、そのことに目を閉ざすところにある。」

10人いたら「10人の正義」があるってこともいいますが、この国の場合、「同調圧力からの”多数”の正義」が跋扈したりするので、これはこれで手に負えないところでもあるかなって思います。

「誠実に生きる」ってこと自体も、今の時代、そのこと自体が堅苦しいってトーンで解釈されてしまって、そこから生み出されていく真摯な言動なんて、まさに目を閉ざされていってしまう。

そんな時、「一人の正義」なんて、徐にただただ叩かれ、潰され、黙らされてしまうことがあって、それがどれほどその「一人」を苦しい思いに突き落としてしまうことか…
そこにある「一人の正義」の生の声なんて、聴き入れる世界自体が貧弱になってしまっているし、その空気感も日々月々年々に増幅されてしまっているように感じます。

ついつい数年前からのこの国の光景は、まさにこの状況のまま。

それを「言い得て妙」に表現しているのが・・・

「現代の悲劇は、人びとが、多数の声であればあるほど正義や真理に近いという錯覚を持つところにある。多数の声が正しいことを語るときもあろうが、一人の声だけが正しくて、ほかの声がことごとくまちがっているということもありうるのだ。とにかく、少数者の道理が通らなくなりがちなところに、私は時代の精神の堕落をみる思いである。」

コロ助茶番で声をあげながらも…というより、声をあげたが故に酷い目に遭ってきた人たちが感じてきたことも、多分、↑ に近いことではないかと思ってしまいます。

いくら声を上げても、聴き入れてくれる人がほとんどいないわけですから。
家族でさえ、親族でさえ。
ましてや会社の同僚たちにしても同様。

システム的に創り上げられたものの力で、ネットの世界にしても蹂躙されてきてしまっているし、これからは情報一つにしても、それが正なのか邪なのかを国家が決めていくことになってしまっています。

情報は、権力が正邪をどうこうするものではなくて、いわゆる一般ピープルが自分の頭で考えて取捨選択していくべきもののはず。
国家が介入するということは、国家にとって都合の悪いことがそのまま「邪」とされてしまってこと。
この辺りのことを知る人は、まだまだ少ないわけで、そこにある種の絶望は感じざるを得ないですね。

「最近、ヒューマニズムが妙に観念的になり、理屈っぽくなり過ぎているように思う。ほんとうのヒューマニズムというのは、無心の行動主義であるはずなのだ。困っている人があれば、自分を犠牲にして救いの手をさしのべる、ただそれだけのことなのである。」

まあ、とにかく、この本の「終章」は、まさに「今現在」のこの国の状況にドンピシャです。

そうなることをまさか「予言」して書かれたものではないのはわかってはいますが、それでも、当時から結局のところ、その「種」はしっかり植え付けられて密かに育てられてきていたってことなんでしょう。

誰に? 笑     
そして、いつから? 笑笑

まあ、書き方としては脈絡が連鎖しにくいですが、だからこそ、自分は自分で感じた「違和感」に拘って、「徹して調べてみる」姿勢を、2020年の後半からとってきました。
その選択は間違ってなかったなって思っています。

 

「危機」というものが実は無いのに、「危機だ! 危機だ!」と「危機」を煽って、そこに「危機なるもの」を作り出すことで、その那辺に「危機管理」を紡ぎ出す「権力」っていう、これ、確か、岡庭昇さんの論理だったような。

なんにしても、「危機」を煽れば、そこに「恐怖」が芽生えるわけで、その「恐怖」を利用しない手はないんですよね、権力にとっては。
何のために?笑

「恐怖」はかなり使い勝手がいいのだと思います。

でも、その「恐怖」は、「神性」と「知性」を求める精神性があれば、実はクリアできるものと思うわけです。

「なにはともあれ、『神々』の不条理な渇きにたいして、私たちは醒めた目を向け続けなくてはならないのである。『神々』の陣営にその一員として身を投ずることは、いとも簡単なことである。なぜなら、いまどきの『神々』は、俗性と反知性主義とを栄養素とする、いわばほんとうの神性にとぼしい俗人集団だからである。それでいて、ふしぎなぐあいに正当性をもっているから厄介である。」

この本が書かれた時代と「今現在」は30数年も差がありますが、矢野教授の示された「神々の渇き」自体のベクトルは、ほぼほぼ重なっています。

この著作の最後の言葉が・・・

「私としては、複数の不特定多数の集団の正義より、自分一人の信念で生きようとする個の論理の正当性を信じたいと思う。『神々』が不都合だというつもりはないが、一人ひとりの個性の尊厳を顧みないところに、正義もなにも成立するはずはないのではないだろうか。」

ま、そういうことなんでしょうね。

賢くないですので深掘りはできませんが、それでもやっぱり、「知性」とか「知力」とかっていうものは、しっかり自分の中に育てていかないと、この先のやばい時代に、ただただ翻弄されてしまうだけだと思うわけです。

 

てことで、今月は11冊読めました!!!
あと1冊読めたらな〜と思ってます^^

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