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2025年9月26日 (金)

矢野暢著『衆愚の時代』・・・1

昨日というか、日付が変わってたので今日ですが、全然寝れなくて(^^;;

布団入りしてから目が冴えまくってたので、寝れない時のいつものように「animal rescue」をFacebookで観てました。
そのうち眠くなるやろうと思ってたんですが、全く・・・笑

結局3時くらいに寝るのを諦めて、そこから1時間半ほど読書をしてました。

今日は起きたのは9時です。休みでよかったです。^^;

 

さて…
今のこの国の世相のことを考えてて、この本のことちらっと思い出したのがいつやったのか忘れてしまったんですが、多分1月くらい?かな?
思い出しただけではなくて、また改めて読んでみたくなったので、すぐに検索してAmazonで購入。
届いてから結構放置してたんですが、9月に入ってから読む気になって、先日読了。

最初に読んだのは、この本が出てすぐくらいやったと記憶しているので、多分、1990年です。
もう35年も前なんですね。怖いな・・・(^◇^;)

Img_5896

今回は忘備録として、ちょっと quote しておこうかと思います。

内容的には、今となっては情報自体が古くはなってきているのですが、矢野教授の文章はやっぱり読みやすくてわかりやすいなって、あらためて感じました。

いろいろあって、「不遇」のうちに亡くなられてしまいましたが、その件についてはここでは触れません。

アナトール・フランスの『神々は乾く』から敷衍しつつ、ニクソン辞任(これはもう、この本に書かれていることとは別格の事情によることは知っている人は知っている。以下、同様)、天安門事件、ベトナム戦争、アキノ大統領、アウン・サン・スー・チー女史等々のことが描かれています。

スー・チー女史の軟禁事件の時は、アムネスティー主催の釈放要求署名運動に携わったことがあります。

結構集めました。100数十名やったかな。

そのスー・チー女史については、まあ・・・です。^^; 今はね。
世間で云われていること(テレビで報道されていること)と実態は違うんだってことですよ。
才媛ではありますが。

それはそれとして、話を戻して矢野教授の秀逸な引用を少し。

★エリック・ホッファー★

「権力は腐敗すると、よくいわれてきた。
しかし、弱さもまた腐敗するということを知ることはだいじである。
憎悪、敵意、粗暴、不寛容、猜疑は弱さの所産である。
弱者のさかうらみは、かれらに加えられた不正から生まれるのではない。
むしろ、人間の無力感と無気力から生まれるのである」
(下線はブログ主。以下、同様)

★エリー・ヴィーゼル★

「広島を忘れてはいけないんだよ。
人間は、忘却と許しとでは、安易なほうに流れがちだ。
忘却の方が安易なのだ」

★司馬遼太郎★(司馬遼も、自分は「う〜ん・・・^^;」なんですが、それはそれとして)

「日本人がもつ、どうにもならなぬ特性のひとつは時流に対する過敏さということであるらしい。
過敏なだけではない。
それが時流だと感ずるや、なにが正義か、なにが美かなどの思考はすべて停止し、ひとのゆく方角にむかってなりふりかまわずに駆けだしてしまう。
この軽薄な、というより軽薄へのすさまじいエネルギーが日本の歴史を作り、こんにちを動かしていると考えられなくはない」

「この国の社会は日常、ブームでみちている。
あらゆるものがブームである。
……週刊誌の編集部も、ブームのたねがきれると、思わぬヒッソリ閑とした事象を掘りだしてホコリをはらい、いまはこれがブームですとさわぐ。
それが日本である」

「われわれは相当な奇国に住んでいることだけはたしかである」

なんか、2020年から今日までの光景を目に浮かびます。
次のパンデミというか、プランデミでも、きっとまた同じことを繰り返すんでしょう。

アクトン卿の有名な言葉に…

「権力は腐敗する。絶対権力は絶対的に腐敗する」

ってのがありますが、こちらの矢野教授の言葉は、フィリピンのマルコス政権が崩壊していく様をベースに、そこからの流れをわかりやすく綴られています。

「権力の腐敗は、必ずその権力の周辺に”愚”を培養する。
その”愚”は、さまざまな愚行となってあらわれ、まわりまわって権力の正当性を損ねていくのである。
そして、やがて、その権力は、自らが培養した”愚”のために滅んでいく」

全部で十章からなるこの書籍。
多分、初読みの時もそうやったと思うんですが、終章が一番、自分には響きます。

この「終章」、4項から成ってまして、第1項のところに、上記に引用の司馬遼太郎さんの言葉が引用されてました。

なので、以下、第2項から引っ張ります。

第2項は「反知性主義の横行」

所謂「かたい本」離れからくる硬派出版社の低迷、そしてマスコミの権力化した姿勢。純文学も読まれなくなっている…等々と言及されていますが、この流れって、ずっと続いて、さらに今もって現在進行形ですよね。

ほんとに本が読まれない時代になってしまいました。

自分なんかは文学が好きやし、かたい系の本も好きなので、フォロー中のブログで本が紹介されてたりすると、すぐにAmazonへ走ります。
たまに書いすぎてしまうこともありますが、先月みたいに・・・

 

矢野教授は綴ります。

「『反知性主義』という、いやな言葉が頭をかすめて消える。知性に価値を認めず、むしろ人間の欲望や感覚におぼれ、流れていくのを許す風潮、つまり『反知性主義』と、日本人は久しく無縁であった。日本をここまで導いてきたものはある種の知性主義であって、『反知性主義』的な傾向は、たとえ芽生えたとしても、社会の空気によって未熟につみとられたのである。

しかし、日本の全体が変わってしまった。日本人が皮膚感覚だけで生きるようになったというべきか、抵抗感のない雰囲気が社会を満たしてしまっている。知性との緊張、倫理との緊張などまるでなくなってしまった。古き良き日本は、もう消えていっているのである。

まあ、昭和40年代くらいまでがギリギリ「知性」で成り立っていたのかも知れないですね。

続いて・・・

「世の中が『反知性主義』に流れたとき、人びとは、実は未来を失うことになる。うたかたのあぶくのようなざれ事だけが世を満たし、それをもてあそびながら、日々気楽に生きていくとき、人々は充実したいまはもてるだろうけれども、未来を持てなくなっているのだ。いまの日本人は、そこのところにまるで気がついていない。」

「知性主義」なるものがまだまだ世に介在してた頃なら、あの2020年からのコロ助茶番も、今よりマシな流れで受け止められたんではないかな…と思ってしまいます。(甘いかな?)

「知性」というか「知」(=知ること、知識)があるなら、そこから「考える」っていうところへ多少なりとも波及効果はあるわけで、そうなれば、というか、そうなっていれば、いくら同調圧力の強い国といえ、ここまでの為体までにはなってなかったんでは?と考えるものです。(が、これも甘いかな?)

「ただ、悲しいことに、人間は、『現実』とはなにかを思い惑わないままに現実を知りたがる奇妙な願望をもっている。それは、ほとんど、本能的ともいえる願望である。それは、極端まで行くと、スキャンダル報道にむらがる、まったく空しい〈現実主義〉にまでいたってしまうのだ。」

これぞ、そのまま、この瞬間にも通じることだと。

スピンに振り回されていることを知らずにスピンに絡め取られて、大切な事実を観ること・見抜くこともなく、ましてや「考える」こともないというこの国の「現実」を目にするとき、少なからず自らに「違和感」を持てた者からするなら、「世の末」の予感が限りなく現実に近いことを感得するんではないかな。

で、その「違和感」を言語化して発するなら、今度は逆に同調ベースの「大違和感」という大きな流れから、弾き飛ばされてしまうという構図。
弾き飛ばされるだけならまだしも、異質扱いってとこまでいってしまう。
それって、もういわば「潮流」のような大きなものになっている感を受けてしまいます。

元からして日本人というのは、「長いものに巻かれる」式のベースがあるわけなので、「そこ」に違和感を持つのか、「そこから」違和感を持たれるのかってベクトルなのだと思います。

あ、それともう一つ。

自身が「知らないこと」を馬鹿にするってこと。
いやいや(^◇^;)
知らないなら、知らないで通せばいいものを、そうではなくて頭から馬鹿にしてしまうってどうよ?って思うんですよ。
「認識」なくして「評価」は不可なはず。
知らないなら調べればいい。これは自分のベースです。

とりま、今日はここまで。
この項、続きます。

愛想なしもなんなので(笑)、写メを一つ。

仕事帰りの花店駅前の夕焼けです。
きれいでした^^

2025092201

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